合併して坂本町になっていくまで

坂本町になるまで

昭和36年、八代郡上松求麻村と下松求麻村、葦北郡百済来村が合併し、八代郡坂本村が誕生しました。
名前の由来は、合併してできる新村の中心地が坂本集落であること、また大きな駅である坂本駅や十條製紙坂本工場があり、村内外に坂本の名が知られていたことなどです。

平成の大合併のころ、坂本村も八代市に合併となり、現在の八代市坂本町が誕生しました。

令和7年は坂本町になってから20周年です。

坂本町ざっくり年表の見出し
縄文時代くらい
中津道伊勢塚遺跡や鮎帰遺跡など、坂本町にはすでに人が住んでいたことが分かっています。
3つの石器が並べてある。ざらざらしていそう。

どちらの遺跡も公開されていません。

7世紀くらい
百済来地蔵堂は、5世紀くらいに百済で偉い役人をしていた日羅公の墓の印として、7世紀ごろに建てられたとされています。
百済来地蔵堂を訪れた人々。人々は説明の看板を読んでいる。地藏堂手前には祭りの黒い旗が立てられている。
11世紀くらい
このころ源平合戦があり、逃げ延びた平家の落人たちは坂本町にも住み始めました。

「平家城」という地名を持つ集落も残っています。

18世紀くらい
今泉製鉄所が稼働していました。
今泉にある製鉄跡発掘調査の様子。地面を指さす一人と、それを見る8人。現在は埋め戻されており、このようなくぼみはない

近世のころの、坂本唯一の工業でした。

画像は昭和53年の発掘調査の様子。

明治7年くらい
(1874年くらい)
最初の郵便局(現:坂本郵便局)ができました。

また、8つの小学校もこのころ作られました。

明治28年
(1895年)
肥後製紙が発足し、坂本町の近代産業史が進み始めます。
工場の壁に設置された社章を撮影したであろうもの。星から上下左右に尺のようなかたちのものが飛んでいるマーク

この翌年、肥後製紙は東肥製紙と名前を改めました。

明治36年
(1903年)
東肥製紙が九州製紙になりました。
九州製紙株式会社の社章。漢字の九を黒い線の丸で囲ったもの
明治41年
(1908年)
八代~人吉間の鉄道(今のJR肥薩線)が通りました。
建設途中の球磨川第一橋梁

画像は建設中の球磨川第一橋梁。

この翌年、福岡から鹿児島まで全通します。

明治42年
(1909年)
鮎帰発電所が動き出し、坂本村に初めて電気が通りました。

熊本県で最初に電気が通ったのは明治24年でした。坂本村は山の中だから大変だったようです。

大正3年
(1914年)
坂本村の集落に初めて電灯が灯りました。

製紙工場近くの集落だったようです。

大正10年
(1921年)
板の平集落で、簡易水道みたいな仕組みが作られました。
走水滝展望台から見える板の平集落。重なる山々の奥、画面中央の山の中にぽつんと集落がある。

走水の滝展望台から望む板の平集落(画像中央よりちょっと左)

大正15年
(1926年)
九州製紙が樺太工業に合併され、3大製紙の一部になりました。
樺太工業株式会社の社章。工の字をたわませて、3つ円状に配置している
昭和元年
(1926年)
山本製菓が創業しました。
山本製菓さんのお菓子。みょうが饅頭とふるさと饅頭

豊年おこしや丸ぼうろ、ぼたもちやみょうが饅頭を販売しています。

お店のサイトはこちらから

昭和4年
(1929年)
日光集落に簡易水道が通りました。
日光の棚田から反対側の山を望む。棚田は畑に転用され、赤い土がたがやされている

当時の新聞では、県で3番目の上水道だと報道されました。

画像は日光の棚田、紹介ページはこちら

昭和8年
(1933年)
樺太工業が王子製紙に吸収合併されました。
王子製紙株式会社の社章。緯線経線のような線が書かれた丸に、りぼんがかけられている。りぼんには古めかしい字で王子製紙株式会社とある
昭和24年
(1949年)
戦争が終わり王子製紙が分割され、十條製紙となりました。
十條製紙株式会社の社章。中央に黒い正方形のひし形、その上下左右に少し小さい黒い正方形のひし形。十っぽい。
昭和29年
(1954年)
坂本橋が完成しました。
坂本橋開通式典。橋には坂本橋開通と書かれた看板がかけてある。支柱にしめ縄を張り、冠をかぶった神職がことほいでいる。紋付の服を着た人やスーツの人々が、神職に向かい頭を下げている

(令和2年流出)

この年、国道219号線をバスが走るようになりました。

昭和30年
(1955年)
荒瀬ダムが完成しました。
たくさんの足場が組まれた荒瀬ダム。家が小さく見えるほどの大工事である

ここも橋として通れました。

昭和30年はじめくらい
坂本村内でテレビが少し売れました。

この後昭和39年、カラー放送が始まりました。

昭和31年
(1956年)
あさひ保育園が開設しました。

現在のあさひ森の保育園です。

サイトはこちらから

昭和34年
(1959年)
真愛保育園が開設しました。
昭和36年
(1961年)
合併して坂本村になりました。
八代郡坂本村の看板を設置するスーツ姿の男性。

昭和29年に公布された町村合併促進法の中で、熊本県で最後の町村合併でした。

促進法が効力を失うまで残り2か月のことでした。

昭和39年
(1964年)
中谷地域出身の本田大三郎選手がオリンピックに出ました。

カヌーチームの主将として出場しました。息子はプロレスラーの本田多聞選手、又甥はサッカーの本田圭佑選手。

昭和41年
(1966年)
十條製紙が西日本製紙になりました。
かつての製紙工場。中央を油谷川が流れ、その左右に大きな工場がある。奥にはみっしりと家々が立っている
昭和41年
(1966年)
深水橋が完成しました。
深水橋開通式典。神職2人と、胸に花をつけたスーツの男性4人が橋を渡り始めている

(令和2年流出)

昭和42年
(1967年)
村章が制定されました。
坂本村章。青地に白抜きでえがかれている

「サ」を図案化したものです。全体の構図から「サカモト」とも読めるとされています。

昭和43年
(1968年)
かわたけ保育園が開設しました。

令和2年の水害の後、八代に移転しました。

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昭和49年
(1974年)
油谷ダムが完成しました。
かなり引きの俯瞰で撮影した油谷ダム。積まれた石とダム湖、それらを挟む山々が写っている

九州初の揚水式発電所の一部です。

昭和53年
(1978年)
葉木橋が完成しました。
葉木橋開通式典。派手なしましまの「祝葉木橋開通」と書かれた入口の下、花をつけたスーツの人たちがくす玉を割っている
昭和55年
(1980年)
昭和55年
(1980年)
わかあゆ保育園が開設しました。

令和2年の水害の後、八代に移転しました。

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昭和57年
(1982年)
中谷橋が作られました。
中谷橋を渡る神職や人々のパレードと、それを撮影するカメラマン。中谷橋の端には「祝 中谷橋開通」と書かれた入口が設けられ、くす玉が割れている
昭和61年
(1986年)
第1回坂本ふるさとまつりが開催されました。
昭和62年
(1987年)
西日本製紙が解散しました。
筆文字で西日本製紙株式会社と書かれた看板。

これにより坂本村の人口はがくっと八代に流出しました。

平成元年
(1988年)
九州縦貫自動車道が通り、坂本SAができました。

それまで国道219号線は毎日大混雑、ドライブインが栄えていたそうです。

平成元年
(1988年)
生活改善グループ鮎帰会が「かずら豆腐」を生産し始めました。
みっちりと固そうな白い豆腐が葉っぱの上にのっている。通常販売している物の2倍サイズ。

大豆の味がぎゅっと詰まって、とても美味しいお豆腐です。

平成3年
(1991年)
久多良木地区棒踊りが市指定無形民俗文化財に選ばれました。
まつり会場で子供達が棒踊りをしている。

かつては地元の小さい子どもあこがれの演目でしたが、現在は休止状態です。

平成3年
(1991年)
鶴喰地区棒踊りが市指定無形民俗文化財に選ばれました。
祭り会場で青年たちが棒踊りをしている

一度は途絶えたものの復活、現在は休止状態です。

平成7年
(1995年)
さかもと温泉センタークレオンがオープンしました。
現在の厨房が無い時代のさかもと温泉センタークレオン。まだ木材が新しく、明るい茶色の建物である

10か月足らずで入館者は10万人に達しました。当初は建物の隣にクレオン畑があったそうです。

平成7年
(1995年)
道の駅坂本がオープンしました。
昔の道の駅坂本とさかもと館。まだコンクリートや石碑が新しく、さかもと館の看板もない

レストランも併設されており、荒瀬ダムカツカレーや鮎、うなぎが食べられました。

平成9年
(1997年)
クレオン元湯「憩いの家」がオープンしました。
昔の温泉元湯憩いの家。傘立てや営業時間の記載も無く、オープン前と思われる

クレオンは森の中の温泉といった感じですが、憩いの家は田んぼの中の温泉です。

平成9年
(1997年)
さかもと八竜天文台がオープンしました。
八竜天文台を俯瞰する角度で撮影された、模型の写真。背景には現実同様、八代平野が見える。

日本最大級の公開屈折式望遠鏡が目玉!

平成14年
(2002年)
鮎帰地区雨乞い踊りが市指定無形民俗文化財に選ばれました
祭り会場で老若男女がたいこを激しくたたきながら雨乞い踊りをしている

一時は途絶えましたが、地元住民が復活させた賑やかな踊りです。

平成16年
(2004年)
九州新幹線が新八代ー鹿児島間で開業しました。

この7年後、九州新幹線が全線開業しました。

平成17年
(2005年)
合併して八代市坂本町になりました。
合併前の旧町村のラインが引かれた八代市の地図。坂本町には色が塗られている

熊本県第2の都市の一部になりました。

平成22年
(2010年)
さくらの雫が熊本県平成の名水100選に選ばれました。
名水さくらの雫。水をためるタンクと、それを覆う屋根がある。説明書きの看板や椅子、ひしゃくが用意されている。
平成24年
(2012年)
荒瀬ダムが撤去されました。

熊本県で最も古いダムでした。国内初の本格的ダム撤去ということで、たくさんの人が見学に来たそうです。

平成26年
(2014年)
坂本住民自治協議会が発足しました。
平成26年
(2014年)
走水の滝が国指定名勝地になりました。
展望台から走水滝を撮影したもの、山の谷間に、白い滝が流れている。滝の3分の1ほどは真っ白だが、途中から岩に当たって枝分かれしていき、風流な見た目である
平成26年
(2014年)
木々子の七夕綱が国選択無形民俗文化財になりました。
川沿いに支柱を立て、それに七夕綱を張っている。

紹介ページはこちら

平成28年
(2016年)
熊本地震が起こりました。
平成28年
(2016年)
「農事組合法人 鶴喰なの花村」が動き出しました。

八代地域の中山間地域で最初の農事組合法人だそうです。

サイトはこちらから

平成29年
(2017年)
「ザ!鉄腕!DASH!」が中津道のあたりから球磨川を下りました。

瀬戸石集落の人が自慢げに話してくれました。「ご~ろよか男」(とてもイケメン)だったそうです。

平成29年
(2017年)
「食処さかもと鮎やな」がオープンしました。
食処鮎やな。つやつやの木のテーブルには鮎づくし定食が並べられている。大きなガラス戸に接しており、外の球磨川を大迫力で眺められる

坂本住民自治協議会の球磨川シルバー再生事業の一環として始まりました。
サイトはこちらから。

令和元年
(2019年)
日本でも最古級の恐竜の体化石が発見されました。

あばら骨の一部っぽいものが見つかりました。

化石は現在、御船町恐竜博物館に置いてあります。

紹介記事はこちらから

令和元年
(2019年)
きくらげ屋「山之屋」ができました。

希少な純国産生きくらげを生産します。

令和2年
(2020年)
新型コロナウイルスが流行り始めました。
令和2年
(2020年)
川遊び交流拠点施設「かわの家」ができました。

たくさんのカヤックも整備されました。

令和2年
(2020年)
石工の郷 八代が日本遺産になりました。
小崎の眼鏡橋。美しい支流から石組みの眼鏡橋を見上げる

坂本町の3つの石橋も、石橋群の一部として日本遺産に登録されています。

画像は中谷地域小崎集落の眼鏡橋。

令和2年
(2020年)
令和2年7月豪雨が起こりました。
令和2年7月豪雨で被災した建物。泥が残る道路、浸水してがれきが詰まった建物には丸太が刺さっている。空は晴れ渡っている

この後、町の人口は3割減少しました。

令和3年
(2021年)
きくらげ屋「山之屋」が事業を再開しました。
令和3年
(2021年)
さかもと復興商店街がオープンしました。
さかもと復興商店街の看板。やじるしが指す奥にはプレハブが見える。

道の駅坂本のお向かいの駐車場にて営業していました。

令和3年
(2021年)
「食事処 和嶋」が「お持ち帰り専門店わじま」として営業再開しました。

お弁当は大人気でお昼には売り切れることも多いです。

令和3年
(2021年)
食処さかもと鮎やなが再オープンしました。
さかもと復興商店街に入った食処鮎やな。無事だった鮎の飾りなどがぶら下げられている

青年海外協力隊の協力のもと、クラウドファンディングにもチャレンジしました。

令和3年
(2021年)
さかもと八竜天文台が営業を再開しました。
令和4年
(2022年)
さかもと八竜天文台の宿泊施設が営業を再開しました。
さかもと八竜天文台の宿泊ロッジから見える風景。山や八代平野、遠くには雲仙も見える
令和5年
(2023年)
路線バスが乗合タクシーになりました。
JR代替の乗り合いタクシーの写真。ハイエース

大人は180円で乗れます。

令和6年
(2024年)
道の駅坂本のさかもと館が撤去されました。
道の駅坂本前に集まり記念撮影をしている。人々は坂本で会いましょうとかかれた看板を持っている

向かいの復興商店街で営業が続いています。

令和7年
(2025年)
道の駅坂本がかさ上げ工事の為閉館しました。
プレハブのさかもと復興商店街に入っている道の駅さかもと。さかもと館の黄色い看板と、赤い丸ポストが目を引く。

八代市役所などでの物販などは、引き続き行われています。

令和7年
(2025年)
さかもと復興商店街が復旧工事の為解散しました。

復興商店街があった場所もかさ上げし、新しい道の駅坂本になります。

令和7年
(2025年)
JR肥薩線の通称「川線」の復旧が合意されました。
西部地域の高台から望む肥薩線線路と球磨川。線路と球磨川の間には家々、球磨川の背後には山と青空が広がっている

2033年ごろの運行再開を目指すそうです。再編により、坂本町で一番南の駅「瀬戸石駅」は廃止になります。

令和7年
(2025年)
食処さかもと鮎やなが休業しました。

道の駅リニューアルオープンを待っています。

画像:一部を坂本村史、坂本村周年記念誌(1981,1996,2001)より引用